
We are excited to present our specially curated song program, Ein Liederabend von Frauen, über Frauen, für alle, as Donna Onna in Japan! Sunday, October 19th, 2025, 2:00 PM, Halle Runde ( Nagoya Showa-ku Sakurayama-cho 1-21, 466-0044 Japan)
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2025年10月19日14時より、名古屋市昭和区 Halle Runde (ハレ ルンデ)にて
新感覚・歌曲演奏会《Donna・オンナ(ドンナ・オンナ)》
〒466-0044、名古屋市昭和区桜山町1-21
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演奏会の中に登場する女性作曲家について
を随時更新していきます!
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Fanny Cäcilie Mendelssohn Bartholdy
ファニーはアブラハム・メンデルスゾーンとレア・サロモンの長女として生まれた。父アブラハムはユダヤ系の銀行家一家の出身であり、家族は当時の社会的偏見や差別を避けるためキリスト教に改宗した。その際に家族名を「Mendelssohn(メンデルスゾーン)」に加え、新たに「Bartholdy(バルトルディ)」の姓を取り入れた。
ファニーは幼い頃から音楽的才能に恵まれ、弟のフェリックスと共に高度な音楽教育を受けた。特に作曲家であり教育者のカール・フリードリヒ・ツェルターのもとで学び、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》を完全に暗譜して演奏できたと言われている。しかし、父アブラハムは彼女に
「...Die Musik wird für ihn vielleicht Beruf, während sie für dich stets nur Zierde 音楽はフェリックスにとっては職業となりうるが、君にとっては人生の装飾であるべきだ」
と送り、音楽家として生きる道を事実上閉ざした。教育の質こそ平等であったものの、男女の役割に対する期待には大きな違いがあった。
1822年、17歳の時、当時宮廷画家として活躍していたヴィルヘルム・ヘンゼルと出会った。家族の制約や若さから当初は交際や文通が禁止されたが、二人は絵や曲を送り合い、1829年に婚約した。ヴィルヘルムはファニーの作曲活動を理解し支援し、芸術家としての人生を共に歩むパートナーだった。
幼い頃からイタリアに憧れを抱いていたファニーは、16歳で「Sehnsucht nach Italien(イタリアへの憧れ)」を作曲した。しかし女性としての制限から、弟フェリックスがイタリアを訪れた際も自らは長く訪問できなかった。1839年にヴィルヘルムと共にイタリアを訪れ、約1年の滞在を経験した。彼女はローマからの手紙に
...Seit wir hier sind, hab’ ich fast noch keine trocknen Augen gehabt – völlig bezaubernd ist der Anblick dieser Wunderstadt私たちがここに来てからというもの、ほとんど涙が乾くことがありませんでした。この不思議な街の光景は完全に魅了するものだ」
と記している。
ファニーは弟フェリックスとしばしば比較された。彼は公の舞台で成功を収めた一方、彼女は主にサロンでの演奏や家庭内での作曲活動にとどまった。社会的な制約の中で自らの才能を発揮し、女性作曲家としての道を模索した彼女の生涯は、当時の女性音楽家が直面した厳しい現実を示している。
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Josephine Lang
ミュンヘン出身の女性作曲家、ヨゼフィーネ・カロリーネ・ラングは5歳から作曲を始め、ピアノと歌唱のレッスンを受けた。後にフェリックス・メンデルスゾーンから通奏低音の指導を受け、彼は彼女の歌曲について「彼女は作曲と歌唱においてこれまで聞いたことのないような才能を持っている」と高く評価した。フェリックスの提案でヨゼフィーネはベルリンに移り、ファニー・メンデルスゾーンからも指導を受けるようになる。16歳の時、フェリックスの支援により彼女の歌曲集が出版された。
その後、ミュンヘンの宮廷楽団(Hofkapelle)の歌手としても活動し、1830年代には彼女にとって最も実りある時期を迎えた。彼女の才能はロベルト・シューマンの知るところとなり、彼が編集した『新音楽時報』により作品が広く知られるようになった。また、クララ・シューマンとは生涯の友人となった。
ヨゼフィーネは、ドイツ・テュービンゲンの法律家クリスティアン・ラインボルト・ケストリンと結婚し、テュービンゲンに移り住む。6人の子どもを育てる中で音楽活動は一時減少したが、1856年に夫を亡くした後、ピアノや歌唱の教師として再び活動を始め、作曲を通じて家族を支えた。しかし、その後立て続けに子どもたちを失い、彼女自身も65歳という若さでこの世を去った。
2025年10月21日(火)19時名古屋市、ハレ ルンデにおける演奏会『Donna オンナ』においては彼女の作品を3曲お聴きいただきます。『たとえ外が雪で積もろうとも』、『永遠の親』 そして『妖精の踊り』です。
2023年に彼女の名を冠した歌曲コンクールがドイツ・テュービンゲンで開催され、2026年3月には第2回目の開催が予定されています。
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クララ・シューマン(Clara Josephine Wieck, 1819-1896)
ハレルンデで演奏されるクララ・シューマンの作品は「Am Strande」(1840年)、「Liebst du um Schönheit」(1841年)、「Warum willst du andren fragen」(1841年)「Lorelei」(1843年)の4曲。ここでは、これらが作曲されるまでの彼女の歩みをご紹介。
クララは1819年に音楽家の両親のもと、ドイツのライプツィヒで生まれた。母マリアンヌはピアニストでピアノ教師、父フリードリヒは音楽批評家で教育者、さらに神学も学んだ人物だった。クララにはアルヴィン、グスタフ、ヴィクトアという3人の弟がいたが、1825年に両親が離婚するとクララとアルヴィン、グスタフは父フリードリヒに引き取られ、ヴィクトアは間もなく亡くなった。母マリアンヌは再婚を機にベルリンへ移り住んだ。
父フリードリヒは1828年に再婚し、新しい妻との間にマリーとツェツィーリエという娘が生まれ、彼女たちはクララの異母姉妹となった。父は有能な音楽教育者として知られ、クララや異母姉妹のツェツィーリエをはじめ多くの優秀なピアノ生徒を育てた。その中にはのちにクララの夫となるロベルト・シューマンもいた。
クララは幼少期から才能を開花させ、1828年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウスで演奏会に出演して以来、国内外で活躍を始めた。パガニーニ、リスト、ショパンといった当時の名だたる音楽家とも親しく交流し、意見を交わすこともあった。また作曲家としても活動的で、1829年にはわずか12歳のときに作曲した『4曲のポロネーズ』作品1が1831年に出版されている。
1828年、ロベルトはフリードリヒのレッスンを受けるため1年間クララの家に滞在し、そこでふたりは出会った。1835年、クララ16歳の時、25歳のロベルトは、『謝肉祭』作品9の中にクララの愛称「キアリーナ」を冠した曲を作った。ふたりは多くの文通を重ねたが、父フリードリヒは交際に反対し文通の禁止令を出し、さらにはふたりに対して訴訟まで起こした。
それでも1840年にクララとロベルトはついに結婚し、翌1841年以降は8人の子どもが生まれ、1843年には父との和解も果たした。
結婚後、ロベルトはクララに自分の音楽活動を支えてほしいと願い、クララの音楽家としての活動はある程度制限されたものの、家庭の経済状況は決して裕福ではなく、クララは早い段階で演奏活動に復帰、1841年にはゲヴァントハウスで「Am Strande」を初演し、その演奏は聴衆を魅了した。ロベルトは、やがてクララの活躍に伴走するようになると精神状態が徐々に不安定になり始めた。
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ハレ・ルンデ公演で披露するAmy Beach(エイミー・ビーチ)の作品44とが作曲された1900年頃までの彼女の歩みをご紹介。
アメリカ・ニューハンプシャー州にて、チャールズ・チーニー(Charles Cheney)とピアニスト兼歌手であったクララ・マーシー(Clara Marcy)のもとに生まれたエイミーは、わずか1歳で音楽の才能を示し、2歳で作曲を始めたとされている。母の手ほどきでピアノを学び、16歳で演奏会デビューを果たすと、その卓越した演奏技術は「神童」と称されるほどであった。
エイミー18歳のとき、24歳年上の医師で大学講師であったヘンリー・ハリス・オーブリー・ビーチ(Henry Harris Aubrey Beach)と結婚。この結婚には多くの条件があり、彼女はピアノ教師としての職業活動を禁じられ、演奏会の回数を制限されるなど、当時の社会的慣習のもとで生きることを求められた。演奏の収入も寄付することとされ、「ピアニストとしてではなく、作曲家として」活動することが夫の条件だった。
それでもビーチは創作をやめることなく、1892年にはミサ曲変ホ長調がヘンデル・ハイドン協会によって演奏され、批評家たちから「アメリカを代表する作曲家の一人」として高く評価された。この協会が女性作曲家の作品を初めて取り上げたことでも、歴史的な意義があった。そして1896年、彼女の《ゲール交響曲(Gaelic Symphony)》が初演・出版された。これはアメリカ人女性による初の交響曲であり、作曲界における重要なマイルストーンとなった。
1900年以降、夫の死(1910年)を機にヨーロッパへ渡ると、彼女は初めて自らの名である“Amy Beach”を名乗り始め、ドレスデン、ミュンヘン、ライプツィヒ、ベルリンなどで次々と演奏会に出演し、自作の交響曲やピアノ協奏曲を自らのソリストとして演奏、好評を博した。
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演奏会でお聞きいただく
歌曲の日本語訳
を随時更新していきます!
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クララ・シューマン
作詞:フリードリヒ・リュッケルト
作曲:1841年
もし美しさを理由に私を愛するのなら
どうか愛さないでください
それなら太陽を愛してください
太陽は金色の髪をまとっているのだから
Liebst du um Schönheit,
O nicht mich liebe!
Liebe die Sonne,
Sie trägt ein gold’nes Haar!
もし若さゆえに私を愛するのなら
どうか愛さないでください。
それなら春を愛してください
春は毎年、新しく巡ってくるのだから
Liebst du um Jugend,
O nicht mich liebe!
Liebe den Frühling,
Der jung ist jedes Jahr!
もし財産のゆえに私を愛するのなら
どうか愛さないでください。
それなら人魚を愛してください。
彼女は美しい真珠をたくさん持っているのだから
Liebst du um Schätze,
O nicht mich liebe!
Liebe die Meerfrau,
Sie hat viel Perlen klar!
もし愛ゆえに私を愛するのなら
どうか私を愛してください!
いつまでも私を想い続けてください
私もあなたを愛し続けます。
Liebst du um Liebe,
O ja, mich liebe!
Liebe mich immer,
Dich lieb’ ich immerdar!
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作曲年:1843年
Heinrich Heine (リュッケルト)
Ich weiß nicht, was soll es bedeuten,
私には、何を意味しているのかわからないDaß ich so traurig bin;
なぜ私はこんなにも悲しいのかEin Märchen aus alten Zeiten,
昔の物語がDas kommt mir nicht aus dem Sinn.
頭から離れないのだDie Luft ist kühl und es dunkelt,
空気は冷たく、辺りは薄暗くなり、Und ruhig fließt der Rhein;
ライン川は静かに流れているDer Gipfel des Berges funkelt
山の頂が輝きIm Abendsonnenschein.
夕日の光を浴びているDie schönste Jungfrau sitzet
最も美しい若い女性がDort oben wunderbar,
あの高いところに座りIhr goldnes Geschmeide blitzet,
黄金の飾りを輝かせSie kämmt ihr goldenes Haar.
黄金の髪をといているSie kämmt es mit goldenem Kamme
彼女は金の櫛で髪をとかしながらUnd singt ein Lied dabei,
歌を歌っているDas hat eine wundersame,
それは不思議なGewalt’ge Melodei.
力強い旋律だDen Schiffer im kleinen Schiffe
小さな船の船乗りはErgreift es mit wildem Weh;
その歌の激しい悲しみに襲われEr schaut nicht die Felsenriffe,
岩を見ずにEr schaut nur hinauf in die Höh’.
ただ高みを見つめていたIch glaube, die Wellen verschlingen
私が思うに、波が飲み込んだんだAm Ende Schiffer und Kahn;
船乗りと船をUnd das hat mit ihrem Singen
それは彼女の歌がDie Lorelei getan.
ローレライがしたことだと。 -
作曲年:1841年
詩:Friedrich Rückert (リュッケルト)
Warum willst du and’re fragen,
Die’s nicht meinen treu mit dir?
どうして他の人に聞こうとするの?
あの人たちはあなたを本当に想っていないのにGlaube nicht, als was dir sagen
Diese beiden Augen hier!
他の誰かの言葉を信じないで
この私の目をみて!Glaube nicht den fremden Leuten,
Glaube nicht dem eignen Wahn;
見知らぬ人の言葉を信じないで
自分の勝手な思い込みも信じないでNicht mein Tun auch sollst du deuten,
Sondern sieh die Augen an!
私の行動に深い意味を見いだそうとしないで
ただ私の目を見てほしいSchweigt die Lippe deinen Fragen,
Oder zeugt sie gegen mich?
私の口はあなたの問いに答えないかもしれない
そして私のことを悪く言うかもしれないWas auch meine Lippen sagen,
Sieh mein Aug’, ich liebe dich!
どんな言葉を口にしても
私の目を見てほしい、私はあなたを愛しているから! -
作曲:1834年(?) ヨゼフィーネ19才の頃に作曲
出版:1848年、出版
詩: 1番 ハインリッヒ・ハイネ
2、3番、エルンスト・ハインリッヒ・マイアー
たとえ外が雪で覆われても
雹(ひょう)が降り、嵐が吹き荒れようとも
私の窓に激しく打ちつけようとも
私は決して嘆いたりしない
なぜなら私の胸には
愛しい人の姿と春の喜びがあるから
Mag da draußen Schnee sich türmen,
Mag es hageln, mag es stürmen,
Klirrend mir ans Fenster schlagen,
Nimmer will ich mich beklagen
Denn ich trage in der Brust
Liebchens Bild und Frühlingslust.
たとえ砂漠に
砂と、太陽が燃ええる
灰色の荒野に住むことになっても
私の中には美しく花が咲くだろう
なぜなら私の胸には
愛しい人の姿と春の喜びがあるから
Muß ich in der Wüste hausen,
In der Wildniß, in der grausen,
Wo nur Sand und Sonne glühen,
Lieblich wird es in mir blühen!
Denn, ich trage in der Brust
Liebchens Bild und Frühlings Lust!
夜が私を脅かしても
危険に取りまかれても
迫られ、荒れ狂われても
ひとりの天使が私を守ってくれる
なぜなら私の胸には
愛しい人の姿と春の喜びがあるから
Ob die Nacht mit ihren Schauern,
Ob Gefahren mich umlauern,
Ob sie dräuen, ob sie wüten,
Wird ein Engel mich behüten!
Denn, ich trage in der Brust
Liebchens Bild und Frühlings Lust!
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Ewige Nähe 作品 8-3
作曲:ヨゼフィーネ・ラング
作詞:アグネス・フォン・カルティン
出版:1838年
私の人生はさらに輝き、
あなたに出会ってから、美しくなりました
あなたと私の同じ願いが
心と心をこれほどにも深く結びつけたからHeller ward mein inn'res Leben,
Schöner, seit ich dich erkannt,
Seit ein gleiches hohes Streben
Herz mit Herz so eng verband.
私の歌も、私の感情も、
すべてをあなたに捧げました
何一つとして、私の愛を冷ますことはできなかった
どんな別れも、どんな苦しみもMeine Lieder, wie mein Fühlen,
Alles hab' ich dir geweiht.
Nichts konnt' meine Liebe kühlen,
Keine Trennung und kein Leid!
それなのに、なぜ私は忘れなければならないのですか
あなたを、私の輝く星を
私はこの深い夜を耐えなければいけないのですか
あなたが私から離れてしまう夜を
Und doch soll ich dir entsagen,
Dir, mein heller Lebensstern,
Soll die tiefe Nacht ertragen,
Dass du mir auf ewig fern!
いいえ、そんなことはあってはいけない
別れなどあってはいけないのです
この地球上で離れていようとも、近くにいようとも
あなたはここ、私の心の中にいるのです。Nein, ach nein, so darf's nicht werden,
Nein, ach nein es darf kein Abschied sein.
Ob getrennt, ob nah auf Erden,
Hier im Herzen bleibst du mein!
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作品44 ブラウニング作品集より第1番
作曲:1899年-1990年
出版:1990年
作詞:ロベルト・ブラウニング
季節は春
日時は朝
朝の七時に
丘は真珠のような朝露が輝く
ひばりは空を羽ばたき
カタツムリは枝の上に
神は空にいる
世界の全てがうまくいっている!
The year’s at the spring,
And day’s at the morn;
Morning’s at seven;
The hill-side’s dew-pearl’d;
The lark’s on the wing;
The snail’s on the thorn;
God’s in His heaven–
All’s right with the world!
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Warum sind denn die Rosen so blaß
作曲: Fanny Mendelssohn
作詞: Heinrich Heine
なぜバラはそれほどにも青ざめているのか
教えてください、私の愛、なぜなの?
なぜ緑の芝生の中の
青いすみれはそんなにも静かなのか
Warum sind denn die Rosen so blaß,
O sprich, mein Lieb, warum?
Warum sind denn im grünen Gras
Die blauen Veilchen so stumm?
なぜ彼女たちは嘆くような大きな声で鳴いているのか
空のひばりたちは
なぜ草は
死んだような匂いがするのか
Warum singt denn mit so kläglichem Laut
Die Lerche in der Luft?
Warum steigt denn aus dem Balsamkraut
Hervor ein Leichenduft?
なぜ霧の中の太陽は輝いているのか
冷たく怒ったように
なぜ地面はこんなにも暗いのか
そして墓のように不気味なのか
Warum scheint denn die Sonn auf die Au
So kalt und verdrießlich herab?
Warum ist denn die Erde so grau
Und öde wie ein Grab?
なぜ私はこんなにも病んでいて、落ち込んでいるのか
私の愛する人、教えてください!
教えてください、私が心から愛する人
どうしてあなたは私のもとを去ったのかを。
Warum bin ich selbst so krank und so trüb,
Mein liebes Liebchen, sprich?
O sprich, mein herzallerliebstes Lieb,
Warum verließest du mich?
【Duo Aurea】(デュオ・アウレア)
ドイツ・ベルリンを拠点に、クラシック音楽の枠を超えた表現で観客を魅了するパフォーマンスデュオ。
歌唱とピアノ伴奏による芸術『歌曲』に浸る90分間。
演奏会の一部では語りや演技を取り入れ、さまざまな女性作曲家の生きた背景とともに、その作品をお楽しみいただきます。
ドイツ語、英語、日本語、そして普段馴染みのない言語ですら、なぜか理解できてしまう、
彼女たちに魅了されてしまう90分間へようこそ!
皆様に多言語の作品や作曲家について、より深く理解し、楽しんでいただけるように、こちらから豆知識を発信してまいります。
どうぞお楽しみに!
デュオ アウレア
フリーダ・ヨランデ・バルク (ソプラノ)
野村 七海 (ピアノ)
2023年、テュービンゲンで開催されたヨゼフィーネ・ラング歌曲コンクールにて第一位および聴衆賞を受賞。女性作曲家の作品を中心に独自のプログラムで演奏会をヨーロッパ各地で開催している。2025年秋には名古屋で《女性から、女性についての音楽をみなさんへ (Ein Liederabend von Frauen, über Frauen, für alle)》を日本初演する予定。
ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学では、トーマス・ハンプソンや藤村実穂子と共演するピアニストのヴォルフラム・リーガーのもとで歌曲解釈を学び、歌唱とピアノの緻密な芸術、そして歌曲の詩の深い理解が高く評価され、多くの招待演奏会に出演している。